2015年9月1日火曜日

最近学生に聞くとロックフェスがブームらしい。国会前の法案反対デモもかつて見た懐かしい景色だった。そこで今日は私達の昔話46年も前のこと。1969年京都で起こった日本では初めてのロックフェス「TOO MUCH」

1969年。京都で起こった日本では初めての実験的ロックフェス「TOO MUCH」
当時、アメリカでは「ウッドストック」が雑誌「LIFE」で特集される程の盛り上がりを見せたが、日本ではロックがお祭り(フェスティバル)となったことは、初めての出来事だった。実験的、何でもありの「TOO MUCH」にロックのミュージシャンが参加し、国産ロックフェスティバル第一号がこの時誕生することになる。
































TOO MUCHの起源

それは、1966年。昭和41年。京美大(京都市立美術大学、現芸術大学)を卒業して1年ほどしか経たぬ頃、同大の教授から声を掛けられ同校の非常勤講師となっていたキーヤンこと木村英輝(現アーティスト)のもとに集まっていた、同大の学生だった

坂井直樹(後に日産の限定車BI-1のプロデュースで脚光を浴び、デザインをプロデュースする新職種として、コンセプターを名乗る)

鶴田憲次(現京都芸大西洋画科教授)
8歳の頃、すでにサルバドール ダリのような特異で緻密な写実的絵画を描き、周りの人を驚かせたという神童である。また、高校時代から蘭の栽培と化石の採取において、プロを超えたコレクターでもあった。

この2人の異才は、世界アートの潮流に気付こうともせず、ぬるま湯にどっぷり浸っている京美大の教官や学生に強い不満をいだいていた。このままでは行き詰まってしまう、授業では味わえない、夢中になれることをメッセージしたいと考えるようになった。2人の提案は講師だったキーヤンにとっては、キャンパスから抜け出した実験的イベントであり、課外授業でもあった。「おもしろい!一緒にやろう」こうして始まった「TOO MUCH」がやがてロックフェスティバルへと変化していった。









時代は東京オリンピック後の昭和40年不況が依然として続いていた。学生たちには満足できる就職先が見つからなかった。それならいっそ自分たちで会社を作ろうと、キーヤンは卒業生たちに呼びかけて、広告企画会社「R.R」を立ち上げることになる。

オフィスは京都の中心街にあった。70年安保もだんだんキナ臭くなり、モヤモヤした気分を持てあましていた学生たちが「R.R」を覗くようになる。美大の教室が「R.R」のオフィスに移った。こうして「R.R」は世界のアート情報を取り入れようとしない教育姿勢に不満を抱いていた学生とその仲間たちのたまり場となっていく。

「R.R」とはRepresentative Result(演出効果)の頭文字からとったネーミングである。ロックンロール(R&R)ではなかった。「R.R」が、やがてロックに関わっていくことになろうとは、開設当時、誰も想像だにしていなかった。

やがて、広告企画会社「R.R」の経営は、広告企画だけでは立ち行かなくなった。なにか他社ではやれない売り物がいる。そこで思いついたのが、サイケデリックな空間演出だった。ニューヨークの「エレクトリック・サーカス」で火が付いたサイケデリック.スペースが新しいプレイスポットとして我が国に上陸。

みんな若いだけあって、さっそくこれを取り入れ、サイケデリックな空間演出をするプレイスポットの企画、制作を手掛けた。
こうして「R.R」はサイケデリック空間の企画制作という新しいビジネスを通じて、知らず知らずのうちに時代に導かれて、誰もが経験したこともないイベントをやるオフィスへと変貌していたのである。

山形不可止、通称GATAは、キーヤンと京美大の同窓生で、「R.R」設立メンバーの一人である。止まるべからず、不可止は本名である。不可止をあえて英訳すれば、ローリング.ストーンとなる。山形はメンバーの中で当時、唯一、中近東、ヨーロッパの旅を経験していた。グローバルな視野で物事を判断できる男で仲間うちでは、誰よりも信頼されていた。

その山形が住む学生寮の隣の部屋に京大電子工学科の北川明がいた。
大人でも難関とされた無線免許を中学生の時、取得した。最年少記録をもつ秀才である。
大学時代は「歩く百科事典」と呼ばれ、その博識ぶりはつとに有名だった。

当時、小田実の「なんでも見てやろう」がベストセラーになっていた。これに刺激を受けて若者たちが海外への旅に憧れた時代である。北川明はこれに便乗して海外旅行の実践本「48ケ国での青春」を著わし、出版した。各国を歩き回り、金がなくなれば血を売って稼ぐといった内容で、信じて旅した若者が気が狂った、とも聞く。

「48ケ国の青春」に触発され、海外へ出かけた若者たちが帰国して、著者、北川明と山形不可止を頼りに「R.R」を尋ねるようになる。彼らにとって、「R.R」の雰囲気は海外でのカルチャーショックをそのまま受け止めてくれる場と映ったようだ。居心地が良かったのだろう、そのまま居候を始めるのだ。

そのうち、居候を尋ねて、海外で交流のあったヒッピーたちがやってくるようになる。「Far out」「Out of site」「Too much」ヒッピーたちが好んで用いる英語が飛び交うオフィスに「R.R」が様変わりするのに、さほど時間はかからなかった。

世紀を揺るがすニュースが衛星放送によって世界へ同時放送されるようになった。ケネディ大統領の暗殺に始まり、以後、キング牧師の暗殺、ベトナム戦争、ビートルズの「愛こそすべて」、月面着陸・・・・と続く。良かれ悪しかれ、国境を超え人種を超えて、若者たちが「何をやりたいのか」「何をやるべきか」を問う時代になった。「R.R」につどう若者の多くもグローバリズムに共鳴していた。

サンフランシスコで自然発生的に生まれたフラワーチルドレンと称されるヒッピーたちがもうひとつの文化と価値観を求めて、東洋の神秘を探るべくインドやカトマンズに旅立った。

アレンギンズバークの「禅の教え」に触れたいと、京都を訪ねたフラワーチルドレンたちは、口こみによって、彼らを迎えてくれる若者たちが集う「R.R」の存在を知ることになる。

当時、ウッドストックが国際的雑誌「LIFE」で特集されたが、ロックがお祭り(フェスティバル)となったことは、日本では初めてだった。実験的、なんでもありのTOO MUCHにロックのミュージシャンたちが参加し、国産ロックフェスティバル第一号が誕生することになる。誰でも自由に参加出来たけれど、カッコよさには、こだわったイベントでもあった。

タイトルの「TOO MUCH」は、キーヤンが命名した。「R.R」を訪ねるヒッピーたちが、よく使う英語だった。最高な時、最悪な時、興奮した時、口調を変えて、飛び出してくる言葉である。発音しやすい英語だ。「ネーミングに関して、私には一家言あった。理想や憧れ、教訓などを押しつける名称は嫌いだった。受け取る響きが勝手に解釈され、一人歩きして広がってゆく名称が好きだった」

「TOO MUCH」は、美大生たちの提案から飛び立ち、ロックフェスティバルに化けて行く。イージーライダー、ウッドストック、若者文化はサブカルチャーと称され、政治、経済、宗教を超え、世界に新しい価値を求めた若者たちは70年代に向かうのである。
http://toomuch-music.com/1.html



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