2010年10月31日日曜日

スプーン曲げの超能力で有名なユリ・ゲラーからyour friend「あなたの友人」と書かれた手紙が出てきた。




































スプーン曲げの超能力で有名なユリ・ゲラーからyour friend「あなたの友人」と書かれた手紙が出てきた。日付を見ると1989年バブルのピークだ。東京は面白い町だと思う。世界中のユニークでクリエイティブな人と東京で出会った。その一人がユリ・ゲラーだった。川添象朗(後藤象二郎の末裔)、通称「しょうちゃん」が、どういうルートで知り合ったのか?ユリを連れてきて原宿の、とあるレストランの個室で10人ほどの悪友と遊んだことを思い出した。テレビ・カメラのない閉鎖空間で、超能力遊びをした。テーブルにあるスプーンやフォークをユリは簡単に曲げる、曲げる。「曲げなくて良いのに。」曲げることに、どんな意味があるの?という感じだった。しかし、テレビのユリ・ゲラーは、なぜか、あまり曲がらずインチキ扱いされて可哀想だった。


いくつもの「いわゆる超能力」を披露してくれたのだが、僕が一番面白かったユリ・ゲラーとの超能力遊びがある。それは、第一園芸でユリに頼まれて購入してきた「かぶの種」を、僕の手のひらに載せて「グロー・アップ、グロー・アップ、、、、」とユリがつぶやくと、目の前で実際に7ミリほどの芽が生えて来た「超能力発芽」とも言うべきか。ユリに言わせると手のひらの上だけ時間を飛ばした?というようなことを言っていた。

悪友の一人で、一緒に遊んでいたミッキー・カーチス(ロカビリーで一世風靡したミュージシャン)は、「ユリ・ゲラーとパリのシャンゼリゼを歩いていたら、通りのイルミネーションをすべて消した。」と言う。僕は自分自身が見たものしか信じない。ある意味つまらない合理主義者だが、そういう話を聞いても、そういうこともあるだろう。と考える程度の柔軟性はある。ただし、超能力を使えるような人は、催眠術など使うことはもっと簡単なわけで、ミッキーだけを催眠させたほうが、エネルギー効率は良いはずだ。とも考える。最後に当時開発中であったビデオカメラの形状をユリ・ゲラーが僕を透視して、そっくりに描き始めた時は驚いた。彼が、産業スパイになることは容易いだろう。久しぶりに会いたくなった。ロンドンに行ったら連絡してみたい。

2010年10月30日土曜日

クリストは「包む芸術家」巨大な大自然から建物まで布で包んでしまう。

皆さん、クリストというアーテイストをご存じですか?僕はクリストの名前は京都芸大にいた頃から聞いていた。そしてクリストのアートの手法に非常に興味があった。その手法を一言で言うと「包む芸術」巨大な大自然から建物まで布で包んでしまう。動画にも出てくる「ヴァレー・カーテン」(1970-1972年、アメリカ、コロラド州)などは谷間に巨大なカーテンを下げた。この作品は幅381メートルにも及ぶ大きさ。作品は夢のように現れ、夢のように消えて観客の記憶の中にしか残らない。見た者は、人工的な色の布で自然の風景が変わることや、見慣れた都会の風景が梱包で一変することに新鮮なショックをうける。
ヴァレー・カーテン

























僕の記憶が正しければ、「私は政治家ではない、ビジネスマンでもない、ただの芸術家だ」と開き直ったインパクトのある発言だ。プロジェクトは毎回、その梱包や作品設置の舞台となる場所の住民・政府官僚などとの許可が必要であり、しばしば反対運動や「これは芸術か否か」といった論争に巻き込まれながら、巨大なお金を集め芸術活動を遂行する。しかし、それもクリストの意図であり、実現までの社会的、政治的な交渉、経済的な問題、プロジェクトにかかわった人々との交流、クリストは「こうした全過程を自らの作品」とみなしている。とても不思議な交渉術を持ったアーティストだ。それぞれのプロジェクトにかかる巨額の費用は、主にプロジェクトの設計図、完成予想図などのドローイングの販売などでまかなっている。クリストは生まれた地ブルガリアで美術を学び、1956年20歳のとき鉛筆だけ持って西側に脱出。パリでフランス人のジャンヌに出会い結婚している。
梱包されたライヒスターク 



















この画像の作品は「梱包されたライヒスターク (帝国議会議事堂)」当時ベルリンの壁崩壊1989年以前以降を跨いだ長期プロジェクト、19711995年の24年間かけて完成し、わずか二週間公開された。しかし、この写真を見る限り、とてつもなく美しく夢のような風景だ。この画像はベルリンの現在の国会議事堂「梱包されたライヒスターク」1995年、ドイツ、ベルリン。ドイツ議会を巻きこむ長年の論争の末、やっと実現したプロジェクト。放火事件や第2次大戦で廃墟となり、統一ドイツの議事堂になる予定だったライヒスタークを完全にポリプロピレン布で覆い隠した。わずか2週間で500万人を動員。布やロープも既製品ではなく、作品のために織られ、材料費等の直接経費だけで約7億円がかかった。 
アンブレラ





















日本では1991年に6年間の準備を経て、茨城県とカルフォルニアとに、同時に3100本の傘を立てた「アンブレラ」が注目をあびた。常に美術界ばかりでなく、社会的にも大きな話題を投げかけている。


2010年10月29日金曜日

ベッドの上で眠る女性が夢うつつに繰り広げる冒険、素敵な動画! メイキングムービーを追加。




イスラエル在住の友人から送られて来た情報です。素晴らしい三分半の映像です。まずはイスラエル発のめくるめくストップモーションMVの紹介。こちらは映像作家YuvalMerav Nathan(ユラブ&メラブ・ネイサン)によるOren Lavie"Her Morning Elegance"。ベッドの上で眠る女性が夢うつつに繰り広げる冒険をコンパクトで、なおかつダイナミックに構成している。舞台はベッドの上、小道具はシーツと枕と少しの小道具だけ。これで海の底から空の上まであらゆるシチュエーションを表現する。本作のために撮られた写真は約3,000枚、撮影には二日間かかったという。結構アメリカでも売れっ子の作家ネイサン夫妻の作品は彼らのWebサイトで見ることができる。現在、この動画を構成した中の約2000枚の各コマも写真の作品として、プリントを展示・販売(1枚のみ・エディション1)しているようです。


Oren Lavie"Her Morning Elegance"のメーキングです。
HER MORNING ELEGANCE music video - Behind the scenes

Making of the Grammy nominated award "Her Morning elegance" music video.
Musician and director - Oren Lavie
Directors and animators - Yuval and Meirav Nathan
Photographer - Eyal Landesman
Actress - Shir Shomron
Producer - Michal Dayan

2010年10月28日木曜日

エジソンは天才(ヒーロー)なのか?詐欺師(ヒール)なのか?

左はエジソンが発明した円筒型蓄音機

















生涯のうちに1.093件の発明を成し遂げたというエジソンは偉大な発明王だ。小学校中退というエジソン、数学も物理も学習するチャンスはなかったと想像する。エジソンの発明がなかったら我々は、どんな生活だったのか?子供の頃に、読んだ「偉人伝」の中にあった偉大な天才エジソンを思い出した。エジソンの功績は素晴らしいものがあるが、一方で改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。これは彼自身の性格に起因する面がある一方、エジソンの遺産相続の紛糾に起因する面もある。発明の中には、エジソンがゼロから思い付いたものなのか、他人のアイデアを改良したものであるのかが、既に分からなくなってしまっているものもある。エジソンの発明の「本当に最初の発明者」を決めるのは困難だ。

「ヒーローとしてのエジソン」
電球ができた!、だが各家庭に電気がない各家庭に電気を売ろう!、そのために大量に電気をつくる水力発電所を作ろう!ダムを作るため強化セメントを作ろう!ダムを作るため山奥で働く作業員のために簡易住宅(プレハブ)を作ろう!余った強化セメントでハイウェーを作ろう!電気を流すため送電システムを作ろう!家庭で簡単につなげるようにしよう!。そしてそのあとの説明文に「電球をきっかけに、発電機、強化セメント、ベニヤ板、絶縁体、そして高速道路を連鎖的に生み出しました。・・・付け加えれば、電球から始まるエジソンの発明は、ソケット、コード、スイッチ、ヒューズ、サーモスタット、サーキットブレイカー、ガムテープ、合成ゴム、プレハブ・・・数え切れません。」この世界を作った神のようだ。

「ヒールとしてのエジソン」
一般にはエジソンが白熱電球の発明者であるという説が広まっているが、白熱電球を発明したのはジョセフ・スワンである。エジソンはフィラメントに京都の竹を使った功績だけを主張。竹は後にタングステンに取って代わられる。エジソンは「電球の発明者」ではなく、電球を改良して「電灯の事業化に成功した人」と言うべきだろう。「発明王」の名を持つ。研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで、「メンロパークの魔術師」 とも呼ばれた。ゼネラル・エレクトリック GE の雇われ社長でもあった。このほか、自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ。一方でジョルジュ・メリエスの傑作「月世界旅行」を公開前に無断で複製しアメリカ中の映画館に売りつけ巨額の富を得たという事実も存在する。

電気椅子による死刑の方法をニューヨーク市に提案した。背景には送電方法について、かつてエジソンの部下であったニコラ・テスラ(イーロン・マスクの電気自動車会社テスラモーターズの社名のもとになった)等を擁して交流を推進するウェスティングハウス・エレクトリック社との対立があった。直流送電派のエジソンは、交流発電機を使った感電の動物実験を重ね、いかに危険な送電方法かを印象づけるために、電気椅子の電源に交流の採用を画策した。すごいことを思いつくモノだ。高齢となって会社経営からは身を引くが、何と研究所に篭り死者との交信の実験を続ける。19311018日、84歳でその生涯を終えた。

2010年10月27日水曜日

石ノ森章太郎さんとは生前、1990年代ある巨大テーマパークのコンセプト作りで、ご一緒するはずだった。

石ノ森章太郎さんとは生前、1990年代ある巨大テーマパークのコンセプト作りで、ご一緒するはずだった。そのプロジェクトは、残念ながらバブルが弾けて途中で中止になって、仕事をご一緒出来る機会は失われた。アフロヘアーで優しい物腰の、柔らかなパーソナリティーは今も記憶にある。この石ノ森さんの「サイボーグ009」の原画は先日京都にある漫画ミュージアムで見た物の中でも大変気に入っている。素晴らしい絵であり、漫画、そして「デザイン」だと思う。




























宮城県佐沼高等学校入学後『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌(コミケで見るような物)『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっており、高校2年生の春、『鉄腕アトム』執筆中の手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受け、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚のアシスタントを務める。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという。この頃のあだ名は「じゃがいも」。


サイボーグ009 OP 誰がために フル
「サイボーグ009」は「仮面ライダー」と並ぶ石ノ森の代表作。それぞれ特殊能力を持つ9人のサイボーグ戦士の活躍や日常を描く長・中・短編の作品群からなる。ただし完結編に当たるシリーズの完成前に作者が死去したため、作者自身による漫画作品は未完に終わっている(後述)。石ノ森自身この作品に対する思い入れは相当強く、仮面ライダーシリーズに関しては作画を他人に任せたことが多かったが、本作は雑誌掲載作品のほとんどを自分で描いたという。

2010年10月26日火曜日

フセイン・チャラヤンは、1994年のデビュー以来、ファッションとメディア・アートの二つの領域を横断的に活動するユニークなクリエイター


Transformer Fashion Show

動画は、モデルは何もしていないのにドレスが形状を勝手に変化させる。ロボット工学的な仕掛けが面白い。また一方で、普通の長さのドレスが、どんどん上に上がってゆき最後は帽子の中に引き上げられモデルはついにヌードになる。その後ヌードになったモデルを中心にフィナーレで出演したモデルが全員出てくる。良く計画通り動作するモノだ。そのメカニックの完成度もかなりのレベルだ。坂井研のコムデギャルソンが好きなオシャレな学生から「ファッションとメディア・アートの融合」という意味で僕のやっていることと共通点が多い。と言われて今年の春「フセイン・チャラヤン」の展覧会を見てきた。

東京都現代美術館ーフセイン・チャラヤン「ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅」
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/113/
hussein chalayan
http://www.husseinchalayan.com/#/home/

フセイン・チャラヤンは、1994年のデビュー以来、ファッションとメディア・アートの二つの領域を横断的に活動するユニークなクリエイターとして、大きな影響を与えてきた。一つ一つのコレクションに込められる、現代社会に対する文明史観的な批評性や魅力的な物語性、LEDやレーザー光線など最先端のテクノロジーを駆使した革新的なデザインは、英国ファッション・アワードの「デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を2年連続で受賞するなど、国際的に高く評価されています。

























チャラヤンの表現は、従来のファッションという枠にはとどまらず、アート、建築、デザイン、哲学、人類学、科学といった複数の領域を横断して展開します。その根底にはあるのは、私たちを取り巻く環境への批評的眼差しだろう。とりわけ、テクノロジーや移動、文化的環境によって、身体およびアイデンティティがどのように変容するのかを服を通して探究してきた。こうしたテーマは、南北に分裂したキプロスの国境地帯で生まれ育った彼にとって、きわめて現実的な問題だったといえる。

















また、グローバル化時代に生きる我々が共有する今日的な問題ともいえる。分断されてしまった土地に住む恋人に、自分が着た紙のドレスに手紙を書き、送れるようにしたエアメール・ドレス、バーチャルとリアルな肉体の狭間でゆれる私たちのリアリティを反映した映像が移ろうLEDドレスなど、それは今日的な問題を反映しながらロマンティックな想像力の輝きに満ちている。

2010年10月25日月曜日

スタンリー・キューブリックが1968年に作った「2001年宇宙の旅」という映画と、1968年とは、どんな時代だったのか?

ボーマン船長





























スタンリー・キューブリックが1968年に作った「2001年宇宙の旅」という映画がある。この映画の背景を考えるために、1968年とは、どんな時代だったのか?を慶應SFCの1990年前後に生まれた学生達にレクチャーをした。この映画の見所は二つある。一つはキューブリック独特のSFX撮影。もう一つは1968年の映画だから、40年前にアメリカを代表した企業のロゴが出てくる。いくつ見つけることが出来るのか?皆さんもぜひ見つけてください。いまならGyaO!で無料で見れます。http://gyao.yahoo.co.jp/p/00597/v09931/
「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン」などのSFX撮影





















まずSFX撮影。
この時代には、コンピュータ・グラフィックスはまだ一般的には使用されていない。それなのに映像のエフェクトは今見てもすごい。ワイヤーフレームCGが登場するが、当時CGはまだ研究室レベルの段階であり、電卓すら黎明期で一般には手が出ない時代だったため、これらの画像は計算尺で計算し、手描きにより作図された。カメラマン出身で撮影技術に長けたキューブリックは、SFX撮影スタッフと共に「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン(スリット越しに被写体を、シャッターが開いた状態で撮影する技術)」といった新たな撮影方法を考案。キューブリックは美術担当として漫画家の手塚治虫の協力を仰いだが多忙を理由に断られる。
パンナムの宇宙船(Orion III)内部なぜか?テレビには女子柔道














1968年の映画だから、40年前のアメリカ企業のロゴが出てくる。
地球から宇宙ステーションまでは、パンナムの宇宙船(Orion III)で移動。そして、宇宙ステーション(Space Station 5)では、ホテルはヒルトン、電話はベルシステム、レストランはハワード・ジョンソン。しかし、パンナムは1991年に破綻、ヒルトンは2007年に上場廃止、ベルシステムは1984年に反独占訴訟で解体、ハワード・ジョンソンのレストランは1,040軒から3軒に。時代の変化はすごいことです。盛者必滅、諸行無常。僕が見つけたロゴは、ヒルトンホテルやAT&T、ハワード・ジョンソンズ、電話はベルシステムズ、IBMWhirlpool、mだあるかもしれない。

2001年宇宙の旅」のストーリー
月に人類が住むようになった現代。アメリカ合衆国宇宙評議会のヘイウッド・フロイド博士は、月のティコクレーターで発掘した謎の物体「モノリス」を極秘に調査するため、月面クラビウス基地に向かう。調査中、400万年ぶりに太陽光を浴びたモノリスは強力な信号を木星(小説版では土星)に向けて発した。ボーマン船長は、ひとり探査を続行した彼は木星の衛星軌道上で巨大なモノリスと遭遇、驚愕の体験を経て人類を超越した存在・「スターチャイルドへと進化を遂げる。」スリットスキャンがすごいエフェクト。
「週刊少年ジャンプ」創刊号






































68'に起きたこと。
まずアポロ11号が月面着陸を果たす前年の1968年に公開。/intel設立/全共闘/東大医学部無期限スト突入。/東大闘争始まる。/ベトナム戦争において、南ベトナムの共産ゲリラが蜂起、テト攻勢開始。/服部時計店(現セイコー)がトランジスタクロックを発売。/マーティン・ルーサー・キング暗殺。/フランスで、学生の街頭占拠と労働者のストライキが一ヶ月に渡って続発した五月革命が勃発する。/ロバート・F・ケネディ暗殺。/「週刊少年ジャンプ」が創刊。/川端康成がノーベル文学賞受賞。/タカラ「人生ゲーム」を発売。/ソニーが「トリニトロン」を発売。/明治製菓、日本初のスナック菓子「カール」発売。/ゲゲゲの鬼太郎 放映開始/ 巨人の星 放映開始/アニマル1 放映開始/サイボーグ009 放映開始/怪物くん 放映開始等々、これでもほんの一部の出来事だ。世界を変える事件が勃発した年だ。

Stanley Kubrick previewed 2001: A Space Odyssey (1968)

2010年10月24日日曜日

深澤直人さんの考えるプロダクトデザインの未来は二つの方向。一つは壁の中や建築の中などの空間に取り込まれていく方向性。もう一つは人間の身体の中に取り込まれていく方向性。

2006年の晩秋に深澤直人さんとKDDIデザイニング・スタジオで対談を行った。その中で、プロダクトデザインの未来に対して深澤さんから興味深い話が出た。こういう話だ、僕のプロダクトデザインに対する考え方から言うと、ある程度、今空中に浮いている、中間領域にあるものは、2つの方向に分かれると思います。1つは壁の中や建築の中などの空間に取り込まれていく方向性。もう1つは人間の身体の中に取り込まれていく方向性です。これは紛れもない事実で、逆らうことはできません。ただし、しばらくはケータイに取り込まれていくだろう。


昔の大きなブラウン管のテレビは、液晶やプラズマテレビとしてどんどん薄くなって壁の方に近づき、扇風機という空間に露出していたものは、エアコンとしてだんだん壁に入っていっている。また一方で、昔は大きなテープレコーダーだったものはどんどん小さくなってiPodになり、さらに小型のMP3プレーヤーになって体に近づいていっている。そこに限度はあるが、そういうものの行き先は決まっている。そして、空間に残るものは家具くらいしかない。


ケータイがギリギリまで人間に近づいたときにどうなるかというと、とても人間に近寄りすぎていて難しい。どこまで物理的なインタラクションを起こすか。僕は1つの路線として、カードという基準サイズがあると考えています。そしてその中に自分の心臓部を入れるかというと、別の面でメモリーなりいろいろなものを封入するひとつの単なる箱、物体としてしか存在しなくなる。この話を昨日書いた猪子寿之さんの主張と重ねて考えると、プロダクトデザインの対象になるモノは少なくなることは確かだろう。

ケータイは個人認証が出来、課金出来ることが、何より他のプロダクトより優れている。その特性を活かして、印鑑証明、保険証、免許証、今後はパスポートなどもケータイで済ませる日がくるのかもしれない。現在もケータイにはすでに色々な機能が入ってきた。インターネット、メール、ミュージック・プレイヤー、suicaやedyのような電子マニー、クレジット・カード、テレビ(ワンセグ)、カメラ、ビデオ・カメラ、デジタル・ラジオ、電子書籍、録音機、カーナビなどの電子地図、デジタル写真アルバム、デジタル新聞。


この機能の内、もともとは「質量を持っていたプロダクト」は、カメラ、ビデオカメラ、ラジオ、録音機、カーナビ、パソコン、ミュージックプレイヤーなどで、これらはアプリというユーザーインターフェイスになり「質量を失った」つまりプロダクトデザインの対象ではなくなる。もちろんまだカメラやビデオカメラなどは単機能のプロダクトとして一定の市場を持っている。しかし、今後は「ケータイでいいや」という人も増えてくるだろう。



2010年10月23日土曜日

デザインとエンジニアリングの境界線が曖昧になってきている。 どこからどこまでがデザイナーの仕事で、ソフトウェアエンジニアの仕事なのかを規定できない。

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『百年海図巻』制作:TEAMLAB.NET ・コンセプト & アートディレクター: 猪子寿之/『百年海図巻』は、上映時間が100年の映像作品です。WWFの予測に基づき、一世紀­後に向け上昇してゆく海面の様子を100年間実寸の時間で上映し続けます。



昨日、黒川雅之さんが主宰されている「物学」という勉強会で猪子さんに話して頂いた。物学とは、日本を代表する大手メーカーのデザイナー達が主な受講者で物の価値にこだわりを持つ人達。一方講師の猪子さんは、物が持つ「質量はダサイ」と主張する側、その双方が激突した。日本の未来を作るためには「物が持つ質量を最小化すること」という猪子さんの主張がキーワードになった。

猪子寿之さんと始めてお会いしたのは2001年、ブランド・データ・バンク社(現マクロミル子会社)のエンジンの開発を依頼したのがきっかけだった。チームラボの開業が2000年なので、その直後、僕がほぼ最初のクライアントだったはずだ。彼に言わせるとニートで引きこもっていたのを僕が引きずり出したという。その時は確か、まだ5名のチームだった。それがいつしか、「デザイン」と「アート」と「テクノロジー」の境界を自在に行き来し、今では230名のチームにまで時代が押し上げた。

猪子さんが全国区のカリスマになったのは、2010227日の「朝まで生テレビ」は、激論!凋落日本と若手起業家の成長戦略として、若手起業家を集めて議論した。田原総一郎+堀江貴文+姜尚中など他も含め10名ほどのコメンテーターだったが、その中でも偉才を放っていた。「ある日電波が飛んできて、、IT、、、」「グーグルだってものつくりですよ!エンジニアばっかりですよ!ソフトウェアだってモノツクリなんですよ!」などテレビで聞き慣れない概念を次々発言し、大変なインパクトがあった。
僕の好きな猪子語録の一つ(inokobotより)
産業の受け皿がなくても、未来のヒントになるようなものがいっぱい出てきた方が、社会全体にとっては絶対良いので、きっと、アートというジャンルが、その受け皿になってくれるはずだと、そして、本当の意味で知的でステキな人がそういうものを評価してくれるだろうと、全く根拠なく思っています。

チームラボとは、
日本発、「ウルトラテクノロジスト集団」を標榜する高度な技術力と発想力の両輪で、「日本人の持つ主観」や「プラットフォーム型」といったコンセプトを作品へと昇華させている。以前であれば、デザイナーはパッケージを作ればよく、エンジニアはハードという内臓を作ればよく、ソフトウェアエンジニアはソースを書ければいい。という時代だった。 しかしiPhoneを見れば容易に理解できるように、 デザインとエンジニアリングの境界線が曖昧になってきている。 どこからどこまでがデザイナーの仕事で、ソフトウェアエンジニアの仕事なのかを規定できない。

猪子寿之とは、
チームラボ株式会社代表取締役社長。
1977年、徳島市出身。
01年、東京大学工学部計数工学科卒業。
同時にチームラボ創業。
04年、東京大学大学院情報学環中退。
大学では確率・統計モデル、大学院では自然言語処理とアートを研究。
ニュースポータルiza(イザ!)Web of the year 2006 新人賞、Web of the year 2006)
オモロ検索エンジン「sagool」、不動産物件検索ポータル「いえーい!」、
オモロイ画像を優先的に表示する「SAGOOLTV」などのWebの企画開発や、
検索エンジンやレコメンデーションエンジンなどの開発販売を行う他、
アート活動として、水墨空間「花紅(ハナクレナイ)」などで、
海外などの展覧会に多数参加。また「au Design project」にて、
2007年のコンセプトモデルとして、新しいインターフェイスの概念の携帯電話「actface」を発表し、
「第11回文化庁メディア芸術祭審査員推薦作品」に選ばれ、
08Web広告研究会主催の「第6Webクリエーション・アウォード」で最終審査の10人に選ばれる。

2010年10月22日金曜日

本家の中国と日本のお箸は形状が違う理由。



先日Twitterが縁で知り合ったグラフィックデザイナーの田中千絵さんデザインされた二種類のお箸を頂いた。おじはグラフィック界のスーパースター故田中一光さん、無くなる直前にほぼ立方体で出来た陶器の「お茶に使う水入れ」を購入した偶然もあった。(画像上が中国のお箸、下が日本のお箸)


千絵さんがオフィスに遊びに来られた時、まずお見えになった時の一言「桃太郎のお話みたいな感じで訪問メンバーが4人となりました。坂井さんのところは鬼が島ではありませんが!」(笑)。桃太郎チームのメンバーとは「日蝕」で芥川賞を獲った「平野啓一郎さん」、田中さんのご主人で、アメリカのCGの祭典SIGGRAPHなどで常連入賞者のCGアーティストの「森野和馬さん」。そして「井植洋さん」と豪華な顔ぶれになった。こうして若く優秀なクリエイターの皆さんが、色々なご縁で毎週のように遊びに来てくれるのは嬉しいことだ。帰り際に千絵さんがデザインされた『日本の伝統色のお箸と中国の伝統色のお箸』を頂いた。伝統色を用いたグッズ・アイディアを10人のクリエータが魅せる『COLOR OF 10』に出展し、投票結果第1位をとった秀作だ。

(以前PEN「デザインのたくらみ」に書いた箸の話)
地球の箸食文化圏は世界人口の28%で、中国を中心に広がっている。2本の棒という基本デザインは共通だが、お国柄によって差違も多い。
たとえば本家の中国と日本の箸では形状が違う。中国の箸は主人が料理を取り分ける「取り箸」としてスプーンと一緒に使うためか、頭から先までほぼ同じ太さの「寸胴型」。一方、日本の箸はもっぱら個人用で「つかむ」「切る」「ほぐす」などの多彩な作業をこなせるように「先細り型」になったと考えられる。
考えてみると、欧米の食道具は刺すのはフォーク、掬うのはスプーン、切るのはナイフとすべて単機能である。しかし日本の箸は、ありとあらゆる作業をたった2本の棒で行う。シンプルな形でありながらこれほど多機能な食道具はない。いわば箸は指の機能を拡張する道具であるが、正しい持ち方を修得しなければ十分に使いこなせない道具でもある。箸そのもの自体が美しいオブジェであることはもちろんだが、それを持つ人間の仕種と一体化することで、さらに輝いて見える道具だ。

2010年10月21日木曜日

アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。

HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン


スティーブ・サミオフという米国人の親友がいる。80年代、LAのメルローズで「STUFF」と言うフリーマガジンの編集長、ストリートの有名人だった。そのスティーブから、マガジンハウスの「KYOICHI」というユニークなジャーナリストを知っているか?と聞かれたことがあった。あの都築響一だ、現在は、コスタリカに住むスティーブに会うと「KYOICHI」は、どうしている?と聞かれる。先日も、その「KYOICHI」とあるデザインコンペの審査員同士という関係で会ったときに、この本を頂いた。「アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。」と語る「KYOICHI」が素敵な本を出した。
http://amzn.to/bjbOuf

(以下都築響一のWEBから)
僕はジャーナリストだ。アーティストじゃない。ジャーナリストの仕事とは、最前線にいつづけることだ。そして戦争の最前線が大統領執務室ではなく泥にまみれた大地にあるように、アートの最前線は美術館や美術大学ではなく、天才とクズと、真実とハッタリがからみあうストリートにある。ほんとうに新しいなにかに出会ったとき、人はすぐさまそれを美しいとか、優れているとか評価できはしない。最高なのか最低なのか判断できないけれど、こころの内側を逆撫でされたような、いても立ってもいられない気持ちにさせられる、なにか。評論家が司令部で戦況を読み解く人間だとしたら、ジャーナリストは泥まみれになりながら、そんな「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」に突っ込んでいく一兵卒なのだろう。戦場で兵士が命を落とすように、そこでは勘違いしたジャーナリストが仕事生命を危険にさらす。でも解釈を許さない生のリアリティは、最前線にしかありえない。

そして日本の最前線=ストリートはつねに発情しているのだし、発情する日本のストリートは「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけだ。この展覧会の主役は彼ら、名もないストリートの作り手たちだ。文化的なメディアからはいっさい黙殺されつづけてきた、路傍の天才たちだ。自分たちはアートを作ってるなんて、まったく思ってない彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのは、どういうことなのだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。僕の写真、僕の本はそんな彼らを記録し、後の世に伝える道具に過ぎない。これからお目にかける写真がどう撮られたかではなく、なにが写っているかを見ていただけたら幸いである。これは発情する最前線からの緊急報なのだから。
http://hiroshimaheaven.blogspot.com/

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
都築 響一
1956年、東京生まれ。76年から86年までポパイ、ブルータス誌で現代美術、建築、デザイン、都市生活などの記事をおもに担当する。89年から92年にかけて、1980年代の世界の現代美術の動向を包括的に網羅した全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』を刊行。以来現代美術、建築、写真、デザインなどの分野での執筆活動、書籍編集を続けている。週刊SPA!誌上で5年間にわたって連載された、日本各地の奇妙な新興名所を訪ね歩く『珍日本紀行』の総集編『ROADSIDE JAPAN』が1997年冬に発売されている。(アスペクト刊、第23回・木村伊兵衛賞受賞、2000年増補改訂文庫版東日本編、西日本編を筑摩書房より刊行)

2010年10月20日水曜日

L'0real(ロレアル)の100周年記念として2009年に発行された「100,000 Years of Beauty」女性の美への欲望の追求は限りない。

100,000 Years of Beauty

L'0real(ロレアル)の100周年記念として2009年に「100,000 Years of Beauty」という、タイトルの5巻セットの、とても美しい本を発表した。ブック・ケースはすべて接着され繋がり写真のように本立てには置けない台形型になる。ネットの時代に、電子書籍とはあえて差異化したのか?オブジェとしての本になっている。
タイトルは上から、
PREHISTORY/FOUNDATIONS
ANTIQUITY/FOUNDATIONS
CLASSICAL AGE/CONFRONTATIONS
MODERNITY/GLOBALISATION
FUTURE/PROJECTIONS
となっていて、極めてアーティスティックで、学術的な美の歴史の追究となっている。
あまりにも膨大なので必要な項目ごとにゆっくり読んでいる。

L'0real(ロレアル)の100周年記念出版された「100,000 Years of Beauty
http://www.amazon.com/100-Years-Beauty-Elizabeth-Azoulay/dp/207012844X
(本の中に書かれている原稿の一部)
5巻の発表は、エッセイの贅沢なイラストを選択、300以上の専門家や科学者まで執筆している。エジプト学者からルネッサンスの教授まで、現代から先史時代にもまたがる内容だ。 情報の深さは素晴らしい。 唐の時代から反米闘争の時代までをミックス。ローマの哲学者オウィディウス、マスク礼儀、老化の髪への対策の流行についてまで学ぶことができる。また個人的に面白いのは古代ギリシャの筋肉カルトの話だ。
美しさ自体が時代に対して一定の価値観ではない。中世の女性のヘアスタイルは、今見ると奇妙に見える。60'sの眉毛や「まつげ」もグロテスクに見えるかもしれない。 また21世紀には、女性の胸に生理食塩水のバッグを挿入し整形することが一般的になると誰にも推測される。それにしても女性の美への欲望の追求は限りない。

2010年10月19日火曜日

シンプルな花札のようなデザインで気に入っている製造過程の伊万里焼の大皿

製造過程の伊万里焼の大皿 

この上の画像の伊万里焼の大皿(直径45センチ)はシンプリシティーの緒方慎一郎さんのお店で二つ購入しました。皆さん「何か変だなあ」と思われましたか?この伊万里焼は、制作の途中であえて未完成な物を、緒方慎一郎さんが「これ以上描かなくて良いから」と言って仕入れたものです。職人さんは驚かれたことでしょうね。これ描き込んでいくと、いわゆる普通の伊万里焼になってしまう。そこを止めてしまうのが緒方さんの美意識の面白いところです。しかも、生産の現場に行かないと、製造過程のこの図柄を見ることが出来ません。僕はシンプルな花札のような図柄をとても気に入っています。参考に下の画像は、図案が描き込まれ完成した江戸後期の伊万里蛸唐草大皿。
完成した江戸後期の伊万里蛸唐草大皿
以下に陶芸家の﨑村久さんから頂いたコメント
この白い空間には、おそらく華やかな上絵付けが施される予定だったのでしょう。これ以上描かなくても良いからといわれた職人は、”驚き”とともに”困惑”したのではないでしょうか。永らく不況の元にある伊万里・有田焼。その打開のためあらゆる方向性を探っている中、あえて<その技術を使わない>という選択は、自らの否定にも感じます。しかしその選択は、器本来の美しさを導き出し、今までとは違う伊万里焼の魅力を感じさせる。朝から、”目から鱗”な作品です。



*現在ヤフー「デザインの深読み」から人気のあったブログだけを、加筆修正を行いながら引っ越しています。引き続きの読者の方には退屈だったら、ごめん!

2010年10月18日月曜日

神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け

若い男のトルソ


コンスタンティン・ブランクーシ(Constantin Brâncuşi, 1876221 - 1957316日)は、ルーマニア出身の20世紀を代表する極めてユニークな彫刻家だ。20世紀の抽象彫刻の原型として決定的な影響を与え、ミニマル・アートの先駆的作品も多く残した。ブランクーシの著名な言葉で、”create like god, command like king, work like slave”「神のように創造し、王のように指揮を執り、奴隷のように働け」を残している。画像の「若い男のトルソ」「接吻」「無限柱」が有名な作品だ。ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』をつくった流政之も影響を受けていると考えている。抽象的で多面的な肉体の彫刻、コンスタンティン・ブランクーシの作品は非常にミニマルで力強い。ともかくかっこ良いなあ。
左が「無限柱」右が「接吻」

ブランクーシのオリジナリティー溢れる作品は、後の現代彫刻、絵画、デザインなどへ、多大なる影響を与えた。特に代表作でもある「無限柱」シリーズは、単純なユニットの反復により構成され、本人が友人の「マン・レイ」に語ったところでは、どこで切断しても無限の柱としての特性を失わないものとされる。マルセル・デュシャン/イサム・ノグチ/マン・レイなど優れたアーティストが交流して、お互いに影響を与えあったのではないかと想像できる。

特に「イサム・ノグチ」はパリでブランクーシの助手となることで、抽象彫刻家としてのキャリアに方向性を見出した。ブランクーシは朴訥な人柄で様々なアーティストから慕われ、マルセル・デュシャンやマン・レイとも親交があった。デュシャンは、ニューヨークでブランクーシの作品を売買することで生活していた時期もあった。マン・レイから写真術を教わったブランクーシは自分のアトリエ内に暗室をつくり、自らの作品を写真に記録することに熱中したこともあった。
(wikipediaを参考)