2010年9月30日木曜日

YouTube - Cute Girl Has A Catchy Dance


イギリスからSAMSUNG(サムスン)のGALAXY580

かわいい女の子がダンスするモブを紹介。


まずは、可愛いい女の子が一人で踊っています。

しかも、お母さんが撮ったような、あえて普通のクォリティーのビデオ映像です。

しかし、その踊りを真似て踊る人間がどんどん増えてきます。

ここで、最後に「Use your Influence」 「SAMSUNG GALAXY 580」が出て、

「あっ、やられた。」となります。

左側に椅子に座ったままのお婆さんは、

良い味出していて、たしか二回だけ椅子に座ったまま踊ります。


子供と動物を広告や映画に使うのは卑怯と言うシニカルな人もいますが、

やはり効果は絶大で、再生回数4,218,593回と400万回を超えている。


フラッシュモブとは:インターネットを通じて広く呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。モブキャラクター(mob character)とは:漫画、アニメ、映画、コンピュータゲームなどに描かれる端役のこと。

群衆(群集)、または主要キャラクター以外の、その他大勢のこと。群集キャラ、背景キャラとも。

2010年9月29日水曜日

丸めたエコノミスト誌の束を組み合わせ、まるで人間の脳のように見える。


丸めたエコノミスト誌の束を組み合わせ、まるで人間の脳のように見える。
脳を刺激するナレッジを提供する雑誌というメッセージか?
この雑誌の情報を脳のデータベースに蓄積してくださいという意味なのか?
エコノミスト誌のPRだが、ほとんど雑誌は見えないが、
一冊だけ表紙が覗いている場所は、脳のどこを司るのか?前頭葉の一部のようだ。
大脳皮質のドーパミン感受性ニューロンの大半は前頭葉に存在する。
ドーパミン系は皮肉にも報酬、注意、長期記憶、計画や意欲と関連付けられている。
やはりエコノミスト、電子化される書籍の中で必要とされる雑誌であり続けるためには、
何をすべきなのか?多いにブレーンを使って議論されているのだろう。

2010年9月28日火曜日

ヘリオスはソーラーパネル自身が幅75mの翼


このヘリオス(Helios)を写真で見たときに、あることを思い出した。

それはまだ小学生の頃、小型エンジンを乗せた飛行機を自分で設計したくなって
Uコン、ラジコンの専門誌に出ていた、
その道のプロの先生に設計の方法を知りたくて質問の手紙を出した。
ものすごく丁寧な何十枚もの便箋に絵と文字で書かれた設計方法を送って頂いた。

その中で翼の面積を設計するときに、平方根(ルート)を使った計算が必要だとわかり、
まだ教育課程に入っていなかった平方根を自分で学習したことを思い出した。

ヘリオスはソーラーパネル自身が幅75mの翼になっていることから、デザイン的には極めてシンプルで、
それに風車(かざぐるま)のような、十四個のモーターで動くプロペラがのどかで、
エコロジカル・デザインの典型になっている。

NASAが開発中の、太陽光発電で稼動し高度3万mまで上昇し、6か月間飛び続けることができる。

この無人プロペラ機ヘリオス試験機は試験飛行中に残念ながら20036月に墜落した。
このHelios計画では、太陽電池と燃料電池の組み合わせで昼夜関係なく飛行することによって、
偵察機また次世代データ通信網としての利用が想定されていた。

費用が比較的安く、しかも無公害飛行機ということで商業使用が見込まれていた。
高高度から地球の観測や無線通信の中継などが可能で、
気象観測や火山の爆発、地震が発生したさいの情報収集などに利用されることが考えられる。
(この記事はヤフーブログで書いたモノを加筆修正しています)

2010年9月27日月曜日

Hermès × Tokujin Yoshioka


2009年クリスマスの銀座で、人目を惹き付けるウィンドウ・インスタレーション。デザイナー吉岡徳仁さんとメゾンエルメスのコラボレーションによるウィンドウディスプレイ、モニターの中のモノトーン映像の女性が「ふうっ」と吹きかける吐息が、目前にディスプレイされるカラフルなスカーフにあたり、ひらりと宙を舞うかのような仕掛け。徳仁さんらしいエレガントな表現だ。非常にシンプルな仕掛けだが、人々の心に情緒を残す。

「人が身につけた時のスカ-フ本来の美しさ」を表現したかったと語る吉岡徳仁さん。「スカーフ本来の美しさとは、決して額縁の中に飾られているスティルな状態ではなく、実際に身につけられ、風になびきながら人の動きと共に変化する表情なのでは。目に見える形ではなく、風という感覚的な要素を取り入れたデザインです」と語る。

2010年9月26日日曜日

SPECTRUM:



デザインかアートか?と議論する人が出てくる吉岡さんの作品。
どちらに区分しても良いのだが、間違いなく才能のある人。
先日もイベントでお会いしたが、ご本人は相変わらずシャイな人だ。

韓国・ソウルで開催中の吉岡徳仁氏の個展「Tokujin Yoshioka_SPECTRUM
の会場撮りおろしムービー。世界最大級の光学ガラスのテーブル
Waterfall」などに注目。会期は815日まで延長された。
ただただ、ため息が出るほど美しい。

2010年9月25日土曜日

緒方慎一郎さんは「和の美」の実践者であり、プロデューサー、 アントレプレナー、デザイナー、ディレクターと多彩な顔を持つ。




































東山、八雲茶寮などの経営者で、wasaraのデザイナーの緒方慎一郎さんと、
大分前になるが輪違屋(わちがいや)に行った。
その時の緒方さんは真剣な表情で、輪違屋に潜む和の記号を読み取っていた。

画像は、輪違屋とwasara/
今の日本人に響く「使い捨ての皿」~WASARAという提案
http://www.j-cast.com/mono/2008/05/22020453.html

和って何ですか?日本って何ですか?
モダーンジャパニーズって何ですか?これらの質問に自ら生み出すデザインで答えている。
緒方慎一郎さんは「和の美」の実践者であり、プロデューサー、
アントレプレナー、デザイナー、ディレクターと多彩な顔を持つ。
現代の利休といえる人かもしれない。

緒方さんは、自身で経営されている飲食店のアートディレクションも行っている。
その幅広い見識とデザイナーとしての力量、
またデザインとビジネスを結びつける能力を持ち
「日本の美意識や価値観」は、なかなか現実の商品に落とし込むことが難しい。
しかし、どの要素をとっても根底に日本の美意識や価値観から選んだものに変換し、
それを統合してカタチにしている。

(以下輪違屋とは?)
輪違屋は、現在も営業されている 京都の花街、嶋原の置屋兼お茶屋だ。
創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。 
かつては芸妓等も抱えていたが 現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、
また、宴席の場として営まれている。 

建物は昭和59年(1984年)に京都市の指定・登録文化財。
太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、 
本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的である。 

浅田次郎小説およびテレビドラマの『輪違屋糸里』で 有名だが、
糸里が輪違屋にいたとの記録は輪違屋側にはない。
「維新の名花」といわれた「桜木太夫」を抱えていたのはここである。 
糸里が「桜木太夫」となる小説・ドラマでのエピソードはフィクション。

2010年9月24日金曜日

土偶・埴輪に始まる日本の人形文化から、海洋堂のフィギュア作品まで



九月の初旬に「京都国際マンガミュージアム」で開かれていた「フィギュアの系譜展--土偶から海洋堂まで」を見に行ってきた。写真でわかるように、漫画好きの世代や国籍を超えた人々が、それぞれが元の校庭で漫画を楽しんでいたのは、微笑ましい。

「京都国際マンガミュージアム」は、建物は、元「龍池小学校」の昭和4年建造(一部除く)の校舎を活用し、当時の佇まいを残したものです。それは、「長年地域のシンボルであった小学校の役割を引き継ぐ」という表明でもあります。と説明されている。「小学校の役割」を引き継ぐという表現が面白い。

(下記はWEBから)
土偶は太古のフィギュアだった?! /京都国際マンガミュージアム/夏の特別展「フィギュアの系譜展--土偶から海洋堂まで」いまやコンビニなどで日常的に目にする<フィギュア>。現在、日本のフィギュア文化は、「オタク」カルチャーを飛び越えて、世界のアートシーンでも大変高い評価を受けています。しかし、<フィギュア>を作り、愛でる文化は、現代になって突如現れたものではありません。太古の土偶や埴輪(はにわ)、お茶の間に飾られているこけし、
子どものころ遊んだ「リカちゃん人形」や「ロボットプラモデル」もすべて、現在のフィギュアにつながる<人形>文化の中で発展していったものです。この展覧会は、土偶・埴輪に始まる日本の<人形>文化の歴史を紹介した上で、現代フィギュア文化の代名詞と言っても過言ではない海洋堂のフィギュア作品を一堂に集めた新しい<フィギュア>展です。

2010年9月23日木曜日

パイクカーの登場はバブル期と時代が重なっていますが、そこに何か因果関係があったと思いますか?

1991年のモーターショーに出展されたのはラシーンでした。日本でのインターネット元年は、Windows95が売り出された1995年からですから、ラシーンの開発時にはその息吹のような物をすでに感じ取っていました。つまり情報化社会とはバーチャルとリアル、マテリアルとインマテリアルが対比される社会であり、情報そのものがプロダクトと考えられる社会です。その時にプロダクトの代表としての車のデザインのあり方を提示したものがラシーンでした。(ラシーンのデザイン画は平林俊一さん)














11-ご存知の通り、92年にバブル経済が崩壊し、日本は長期不況に陥ります。つまり、パイクカーの登場はバブル期と時代が重なっていますが、そこに何か因果関係があったと思いますか?また、坂井さんご自身の活動とバブル経済は関係があったとお考えになりますか?

70年代に効率的、合理的、機能的という、3つのキーワードで価値観が説明できる工業化社会が終わり、脱工業化社会(ポストモダン)が始まっていました。つまり工場やメーカーなど生産者側の都合だけでは、新しい消費にコンシューマは心が動かなくなっていました。わかりやすく言うと、従来型のプロダクトアウトの手法が限界を迎え、本格的なマーケットアウトの時代がやってきました。つまり、バブル期の「時代の気分」をもっとも肌で感じていたWATER STUDIO20代~30代のスタッフがもっとも欲しいものを作れば売れると確信していました。実際Be-1の中古車は発売後二ヶ月で本来の価格の130万円は2倍を超え300万円で売買されていました。「欲しいものが欲しい」「買えないものが買いたい」というのは、バブル経済を象徴するキャッチコピーでした。そういう時代の象徴がエモーショナル・リッターカーというキャッチコピーを与えたBe-1でした。」

12-90年代はプロダクトデザイン界も元気がなく低迷しました。坂井さんのご活動にも、こうした時代背景は影響がありましたか?

「そうですね。僕も自動車はラシーンで一息つきました。そして従来からのデザインのパートナー山中俊治さんに加え、当時20代半ばで来日したグエナエル・ニコラとの協同が増えていきました。彼らの世代のプロダクトデザイナーはパソコンへのスキルが高く、インターフェイスやインターラクションという概念を常にデザインに持ち込みだしました。柏木博さんの言うインマテリアル・デザインの時代の到来です。つまり、モノと人間、社会と人間、情報とデザイン、テクノロジーとアートなどを語り出しました。80年代のようにモノ(マテリアル)だけの価値では新しいモノが作れなくなっていました。時代は本格的なインターネット社会が目前に迫っていました。具体的に言いますと、クルマは既に移動体の端末であり、リアル・コミュニティーである地図上の移動とともに、カーナビや携帯などを使いエレクトニクス・コミュニティーというネットワークの中も移動しており、パラレルな二重のネットワークを移動しているわけです。そこで情報化社会とプロダクトという、新しい課題を背負うことになりました。」

2010年9月22日水曜日

1989年のモーターショーに展示されたパイクカーはフィガロでした。

今考えるとバブルのピーク、
1989年のモーターショーに展示されたパイクカーはフィガロでした。引き続き三原昌平さんの「PDの思想」のインタビューに答えた原稿をもとに加筆修正しました。















9-ラシーンの発売の二年前にフィガロがあります。これも坂井さんが最初関係されていたと聞いてますが、坂井さんが関わらなくなった経緯をお話出来る範囲でお聞かせいただけますでしょうか?

「最初、コンセプトワークの段階では我々が参加していましたが、僕自身が誰よりも早くレトロ・デザインの引用をBe-1で始め、誰よりも早くレトロ・デザインの引用に飽きてしまったことが、途中で引いてしまった理由です。

今考えると、かなりわがままなコンセプターであったと反省しています。しかし一方で、レトロデザインは一つのカー・デザインの手法として今でも継続されています。これほど長期的にラウンド・シェイプが続くことや、レトロ・デザインがデザインの一つの手法として続くことは当時予測出来ませんでした。」















10-フィガロをどのように評価されますか?

「フィガロは、いま見ると意外と好きです。なおオープンカーにするために重量がかなり重くなったということもあってターボエンジンがのっていますので、今でもかなり走ります。特にインテリアデザインは初期の提案が残っているようにも思います。

イギリスには特に熱烈なフィガロ・ファンがいて、フィガロの専門店もあると聞いています。そしてエリック・クラプトンやオアシスのノエルも乗っている(いた)と聞いています。ミニ・ダイムラーのようなデザイン・テイストがあるのでしょうか?最終的にはフィガロは清水潤さんがデザインされたようなものだと思っています。」





































2010年9月21日火曜日

旅行やサファリの冒険気分を味わえる車PAO、バブルと共に80年代のデザインを検証してみたいと思っています。



(下記は「PDの思想」をもとに加筆修正しました)
7-Be-1発売の翌年の1987年にはPAOが発表になっています。作業は重なっていたのでしょうか?

「作業は重なっていません。モーターショーのサイクルが二年に一回ですから、、しかし、アイデアはある程度持っていました。それはGAPのサブ・ブランドであったバナナ・リパブリックというブランド・コンセプトの「旅行やサファリの冒険気分を味わえる服」を、そのままクルマに置き換え「旅行やサファリの冒険気分を味わえる車」を作ってみようということでした。」

8-Be-1のような衝撃は薄らいでいたものの、同じく古場田良郎さんが担当したPAOのデザイン的な完成度はBe-1を上回るものがありました。

2車は坂井さんにとってどのような評価になりますか?

「その通りですね。「処女作を上回るものはない」という言い方があるように、その象徴として車での初めてのプロジェクトのBe-1は処女作でした。また世の中を大きく変えるのは、歴史的には常にアマチュアであって、プロフェッショナルはむしろ改善に向いていると思います。

80
年代前半の町には四角いクルマしかなかったところに、投入されたたった一台の小さな丸いクルマBe-1が登場したとたんにユーノスロードスターをはじめ、数々のクルマが世界中で丸くなっていった。

そのようなダイナミックな市場の変化を幸運なことに体験しました。「デザインの完成度」といった専門家のみに通じる価値観も、もちろんとても大切な事です。でもBe-1はデザインの力で世の中を変えたのです。

しかし、残念ながらPAOは世の中に、少し楽しいクルマをもう一度提案したにすぎなかったのです。Be-1がなければPAOは作れなかったのですから、当然ですね。しかし、最近も数年間PAOを日常の足代わり使っていたほど、PAOのデザインは自分の好みにフィットしました。」

2010年9月20日月曜日

久しぶりに詳しいBe-1開発の経緯を公開します。


以下「PDの思想」から、久しぶりに詳しいBe-1開発の経緯を公開します。

1-日産からBe-1の話しがあった時、それは具体的にどのような内容でしたか?
そして、それは途中で変更されるようなことがありましたか?























「当時はホンダのノッポのシティーが人気があり、日産としては、それに対抗出来る
マーチのリニューアル・プランを検討していました。
つまり本来はニューマーチを期待されたプロジェクトでしたが、
我々が提案したB-1(Be-1の当時のコードネーム)のコンセプトは
大変インパクトがあり評価されましたが、
反面一般市販車としては適切なデザインではないという判断でした。
しかし、モーターショーの予想を超えた大人気を受けて
1万台限定のパイクカーとして発売しようということになりました。
Be-1の発売は結果として300億円に換算出来るノンペイドパブを生み出し、
当時の日産の人気の回復には成功しました。」




















2-そのBe-1の依頼の時、坂井さんご自身は直感的にその内容をどのように受け止め、理解されましたか?

「当時の僕はクルマには、さほど興味がなく免許も持っていませんでした。
しかし、日産は却ってそれを面白がるようなところもありました。
結局当時の僕の専門分野であったファッション(多様化)・デザインとして、
マーチというシャーシの上に乗せるパッケージの着せ替えとして、
カー・デザインを考えてみようと思いました。
あるいは町の風景としてカーデザインを考えてみようと思いました。」





















3-発表するまで、最もご苦労されたのはどのようなことでしたか?

「当時の清水潤主管や渋江建男さんなどが、とても協力的で、
我々のそれまでのカーデザインの常識を覆すような提案を、とても面白がってくれました。
つまり、我々はたいした苦労をした覚えはないのですが、
いろいろな部署への頻繁なプレゼンテーションは行いましたし、
開発の過程の議事録は丹念にとり、その資料が日産社内を回覧し、
結果的に根回しの役割を果たしました。しかし、大半の日産マンは反対意見であったようです。」

4-その時の日産の企業としての評価はどのようになりますか?

「それまでの僕のいたファッション・ビジネス業界は、
今のIT産業のように起業が容易な新興産業でした。
それに対して日産をはじめとした自動車産業は重厚長大と言われ国家権力にもっとも近い、
まったく我々と反対の価値観にある産業でした。当時はまだ日産が、トヨタやホンダと、
どう違うかというほどの見識を自動車業界に対して持っていませんでした。
つまり僕にとっては完全な未知の分野であったわけです。
そして、日産のカーデザイナーもまた我々を異星人のように見ていたに違いありません。」

5-最終的にBe-1の出来は坂井さんにとって満足の出来るものでしたか?
もし、どうしても納得出来ない箇所があればお話しいただけますか?

「Be-1のデザインは、我々のコンセプトワークを率直に表現していました。
そして、まだ若かった古場田良郎さんのデザインは大変満足出来るものでした。
ただし、生産期間が短かったためプロダクト・クォリティーは、今一歩でしたが、
ラウンドシェイプに代表されるデザインに関する実験は、
あの時点ですべて達成出来たと思っています。」

6-発表するとスゴイ反響でした。この時の感想と、
坂井さんご自身のアイデンティティに与えた影響は何ですか?

「そうですね。まず1985年の東京モーターショーに展示されたBe-1のモックアップは、
どの車よりも人気が高く、人だかりもすごかったこと。
そして人々の発する賞賛の声は意外とシンプルで「可愛い」と「欲しい」
という直感的な言葉に集約されていました。当時の僕自身は40歳になろうとしていたときで、
このBe-1の経験からWATER STUDIOは、
今までのファッション・ビジネスからプロダクト・デザインの
コンセプトワークを行う専門の会社に変貌しました。
僕自身の「すべての分野のデザインの基本は同じ」という仮説が証明されたことが、
アイデンティティに与えた影響と言えるかもしれません。」

テーマは、「未来の魔法のような将来のメディアはどんなものだろうか」


iPadという新しいデバイスが、新しいクリエイティブを生み出す。
基本パラパラアニメと変わらない映像手法。
そしてクレイアニメーションのように我慢強い作業が伴う。


(以下、wiredvisionから引用)
『iPad』を使って、光による3次元イメージを作り出している。
撮影には、長時間露光撮影と、ストップモーション・アニメーションの技法を利用している。
作られるアニメーションには、抽象的なアルファベットや幾何学的な図形など。


映像の前半では、制作のプロセスが説明されている。
これを「仮想CTスキャン」として説明している。


制作チームはまず、ソフトウェア・テンプレートを作成した。
3Dモデルを座標で示し、2次元のスチルを生成するものだ。
それから得られた複数のスチルを、iPadで順番に再生していった。
iPadを持って空間を移動すると、空間でスチルが組み合わさり、
まるでiPadが3Dの物体を「押し出している」かのようになる。


テーマは、「未来の魔法のような将来のメディアはどんなものだろうか」というものだ。
(プロジェクト名は『Making Future Magic』)
光が、新しい粘土素材で作るクレイアニメーションのようになる。
http://wiredvision.jp/news/201009/2010091718.html