2011年5月26日木曜日

佐藤可士和さんは、デュシャンについて「芸術に重要なのは、技術や身体能力ではなく、新たな価値を提示するセンスや哲学だ」と書いている。この難解な芸術家を実にシンプルに説明している。


デュシャンについて、「20世紀を代表する芸術家というより、20世紀の芸術思想を体言したアーティスト」というべきだと誰かが語っていた。早い時期に、画家として油絵を放棄したマルセル・デュシャンは、「既成の物をそのまま」、あるいは若干手を加えただけのものをオブジェとして提示した「レディ・メイド」を数多く発表した。レディメイドのタイトルの多くは、ユーモアやアイロニーを交えた語呂合わせで成り立っており、一つだけの意味を成り立たせないように周到に練られている。





























普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をし『泉』というタイトルを付けた作品を1917年制作したときも、だれもデュシャンを理解しなかった。それどころか芸術界に物議を醸し罵詈雑言の嵐だったようだ。デュシャンは、レディメイドについて明確な定義が自分でもできないと語っていた。
‪マルセル・デュシャン インタビュー01‬

また「芸術作品は作る者と見る者という二本の電極からなっていて、ちょうどこの両極間の作用によって火花が起こるように、何ものかを生み出す」という、彼自身の言葉は現代のネット社会のSNSやCGMを予言しているかのようにも聞こえる。しかも、デュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけた。そして「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」と語っている。アンディー・ウォーホールの原型かもしれない。一度平野啓一郎さんとデュシャンについて議論したいものだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿