猪子寿之さんのアートの話はかなり面白い。特に西洋のアートと日本のアートとの違いをサイエンスを使って説明しているのが面白い。
猪子:なんでなんだろう笑 ピカソなんかは現れて100年くらい経ってますけど、何十年か経った時に、美の概念、美の基準を変えていくものを探しているんですかね。語弊がある言い方かもしれないですが、アートって究極「誰が美の基準を変えるのか」という世界なんだと思うんです。
猪子:大前提として、歴史に名前が残っている人って、サイエンティストか、革命的な大規模な国家を作った人か、アーティストじゃないですか。革命家はわかりやすいですよね。サイエンティストもわかるでしょ。でもアーティストはなんで歴史に名が残っているんだろうって思ってるんじゃないですか
猪子:アーティストって、サイエンティストと似ているんですよ。
サイエンティストのおかげで、人類の見えている世界は広がってきたと思うんです。例えば、人間の目。肉眼なんてフォーカス範囲が浅くて狭い。
目の前に指を出されると、僕の顔が隠れて見えなくなってしまうくらい。でも、今、スーパーボールを思いっきり投げても、みんな見えると思うんです。
それって全員が物理の法則をなんとなく共有財産として持っているから、予測がついて見えているんです。その知識を持つ以前は具体的に見える範囲が狭かったのに、サイエンティストのおかげで見える範囲が広がった。
サイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。例えば、「雨を描いてください」と言われたら描けますよね。
堀江:雨 うん、描けるだろうね。
猪子:それって、人類がそう見えていると思い込んでいるから描けるわけなんですよ。1877年に描かれた有名な絵があります。タイトルは『パリの通り、雨」。
明らかに雨の日のパリを描いているわけです。
ギュスターヴ・カイユボット、《パリの通り、雨》、1877年
堀江:雨が見えない。
猪子:これ、雨が描かれてないですよ。ぼんやりとしか。描かれているのは傘を差す人と雨で濡れた石畳の路面。この時代は、こういう風に雨が見えていたわけです。実は同じ頃に浮世絵が世界ではじめて雨を線で描いているんです。
堀江:なるほどね。
猪子:正確に言うと、いきなりではなく、100年くらい前から無名の浮世絵師が描きはじめていて、そしてみんなが知っている歌川広重の『大はしあたけの夕立」が描かれるわけです。
堀江:浮世絵は版画だから、こういう表現になったんでしょ。
猪子:いやいやいやいや笑 説明すると長くなりますが、違います
堀江:違うの
猪子:ちょっと難しい話になりますが、僕らは自分の目のフォーカス範囲がそんなに狭くて浅いとは思っていない。だから過去まで遡って、目を縦横無尽に動かしたりして見た映像を脳で再構築してると思うんです。
現代人はそれをパースペクティブ遠近法みたいな論理構造で再構築していますが、近代以前の日本は再構築に使う時間が西洋より長かったと思うんですよ。僕の仮説ですけど。だから、線になった。
堀江:時間軸が長いから、雨の点が軌跡になって線になったわけだ。
https://shingakunet.com/journal/learning/20170327183411/
猪子:なんでなんだろう笑 ピカソなんかは現れて100年くらい経ってますけど、何十年か経った時に、美の概念、美の基準を変えていくものを探しているんですかね。語弊がある言い方かもしれないですが、アートって究極「誰が美の基準を変えるのか」という世界なんだと思うんです。
猪子:大前提として、歴史に名前が残っている人って、サイエンティストか、革命的な大規模な国家を作った人か、アーティストじゃないですか。革命家はわかりやすいですよね。サイエンティストもわかるでしょ。でもアーティストはなんで歴史に名が残っているんだろうって思ってるんじゃないですか
猪子:アーティストって、サイエンティストと似ているんですよ。
サイエンティストのおかげで、人類の見えている世界は広がってきたと思うんです。例えば、人間の目。肉眼なんてフォーカス範囲が浅くて狭い。
目の前に指を出されると、僕の顔が隠れて見えなくなってしまうくらい。でも、今、スーパーボールを思いっきり投げても、みんな見えると思うんです。
それって全員が物理の法則をなんとなく共有財産として持っているから、予測がついて見えているんです。その知識を持つ以前は具体的に見える範囲が狭かったのに、サイエンティストのおかげで見える範囲が広がった。
サイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。例えば、「雨を描いてください」と言われたら描けますよね。
堀江:雨 うん、描けるだろうね。
猪子:それって、人類がそう見えていると思い込んでいるから描けるわけなんですよ。1877年に描かれた有名な絵があります。タイトルは『パリの通り、雨」。
明らかに雨の日のパリを描いているわけです。
ギュスターヴ・カイユボット、《パリの通り、雨》、1877年
堀江:雨が見えない。
猪子:これ、雨が描かれてないですよ。ぼんやりとしか。描かれているのは傘を差す人と雨で濡れた石畳の路面。この時代は、こういう風に雨が見えていたわけです。実は同じ頃に浮世絵が世界ではじめて雨を線で描いているんです。
堀江:なるほどね。
猪子:正確に言うと、いきなりではなく、100年くらい前から無名の浮世絵師が描きはじめていて、そしてみんなが知っている歌川広重の『大はしあたけの夕立」が描かれるわけです。
堀江:浮世絵は版画だから、こういう表現になったんでしょ。
猪子:いやいやいやいや笑 説明すると長くなりますが、違います
堀江:違うの
猪子:ちょっと難しい話になりますが、僕らは自分の目のフォーカス範囲がそんなに狭くて浅いとは思っていない。だから過去まで遡って、目を縦横無尽に動かしたりして見た映像を脳で再構築してると思うんです。
現代人はそれをパースペクティブ遠近法みたいな論理構造で再構築していますが、近代以前の日本は再構築に使う時間が西洋より長かったと思うんですよ。僕の仮説ですけど。だから、線になった。
堀江:時間軸が長いから、雨の点が軌跡になって線になったわけだ。
https://shingakunet.com/journal/learning/20170327183411/
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