2020年8月26日水曜日

生い立ちや若いときの私、そして経歴などを書いてみようと思う。コンセプター坂井直樹


そろそろ「私」を出すのも良いかと思い立ち。すこし生い立ちや若いときの私、そして経歴などを書いてみようと思います。知っているようで知らない坂井直樹もあるかもしれません。

コンセプター坂井直樹

・経歴と業績リスト
(コンセプター/ウォーターデザイン代表)
1947年9月20日:大阪市に生まれ京都市で育つ。
1967年:京都市芸術大学デザイン科入学。
1969年:渡米。サンフランシスコでTattoo Companyを設立。ヒッピー達とTattoo T-shirtを売り、大当たりする。
1971年:京都市芸術大学デザイン科四年終了。国産初のロックフェスティバル「TOO MUCH」を木村英輝と共にプロデユース
1973年:帰国後、ウォータースタジオを設立。
1987年:日産「Be-1」を世に出し大ヒット。
1988年:オリンパス「O-Product」の限定販売に予約が殺到。
1989年:日産「PAO」を世に出し大ヒット。
1990年:バルセロナで「Water Studio展」を開催、好評を得る。
1991年:日産「figaro」を世に出し大ヒット。
1992年:日産「Rasheen」を世に出し大ヒット。
1995年:SF_MoMAの企画展に「O-Product」を招待出品、その後永久保存へ。
1995年:NTTとNECで情報通信関連のプロダクツとコンテンツ開発を多数手がける。
2000年:米国NIKE本社で行われたCreative Design Conference にゲストとして招待され、300人のデザイナーにWater Studioのプロダクツと、20年来独自に開発してきたマーケティング手法である    
Emotional_Program (EP)について講演。
2001年9月:インターネット・マーケティングを行うブランドデータバンク株式会社を設立。
2004年7月:デザイン業務を行う株式会社ウォーターデザインを設立。
2005年11月:au design projectにおいてau_KDDIからコンセプトケータイHEXAGON+MACHINAを発表
2006年11月:au_KDDIからコンセプトケータイCYPRES/VOLS/KAOSを発表
2007年1月:アルフレックスより日本人の美意識を呼びおこす「AUN(あうん)」シリーズを3名のデザイナーと共に発表。
2008年4月:慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスにて大学院政策・メディア研究科教授。(2013年3月退任)
2009年4月:京都造形芸2010年4月:慶應義塾大学SFC_XD展開催。
2011年4月:慶應義塾大学医学部兼担教授
2011年7月:「NS_CONCEPT 坂井直樹 展」を開催。坂井直樹が立ち上げたプロダクトブランド「NS_watch」自主企画展を開催しました。
2013年3月:慶應義塾大学教授退任
2013年4月:成蹊大学経済学部客員教授就任
2013年5月:NSのシリーズ作品第二弾[NS_髑髏伊万里]ルーチェTOYOKITCHEN STYLE
2014年7月:天王洲のアマナと共同プロジェクトamana_WATERを開始。

京都芸大の私の恩師、木村英輝氏が学生当時の様子から今に至るまでの私の経緯を、彼の眼をとおして書いてくれました。その文章の一部です。彼は私の人生に大きな影響を与えた人物です。
MOJO WESTの前身TOO MUCHの火付け役になった美大生が、あの日産コンセプトカー「Be-1」をデザイン&プロデュースした坂井直樹だ。ロング・ヘアーで茶髪、フリルの付いたシャツ、薄化粧、指にリングが一杯、そしてハードな黒いサングラス、こんな出で立ちの美大生が現れた。美大は(京都市立美術大学、現・芸術大学)公立校、受験の難関を突破してきた画学生ばかり。汚れた作業着が定番だった。50年も昔のことだ。彼はピーコック・ファッション革命の先陣を走っていた。彼こそがその後、「Be-1」(日産の限定車)やSF・MOMA(サンフランシスコ近代美術館)に永久保存されたオリンパスのカメラ「O-PRODUCT」等のデザインで一躍名を馳せる坂井直樹である。

彼は大阪、四条畷駅前のサカイ運送の長男。四条畷とは今東光が言う“河内のヘソ”の様な所。しかも彼は四条畷高校のラグビー部だったという。バリバリの河内野郎と言ってもいい。親父の生家は京都の帯屋、古典を重んじる家系、今も叔母は京都・白梅町で坂井春陽堂という骨董屋を営んでいる。坂井直樹は、ともすれば軽薄だと誤解されやすい身なりでファッション系の仕事をしてきた割りには大胆で男っぽいのは、育ちは河内、血は京都という生い立ちのせいかもしれない。荒々しい河内の根性と京の雅な感性による彼の発想の根っこが垣間見える。

僕はコンセプターと名乗って三〇年が経過した。コンセプトワークとインサイトの関係は極めて親密だ。例えばBe-1というコンセプトは、ビルから眺めていた当時の首都高の自動車がほぼ全部四角いという気づきから始まった。さらにファッション関係者が多い代官山の裏通りを歩いてみると、ミニクーパー、スバル360、ホンダS600、トヨタスポーツ800などが駐車していた。そういえば、自分の周囲の高感度の人たちも、同様に主に六〇年代の丸みを帯びた中古車に乗っている。結果、角ばったデザインの枠からはみ出す、レトロな丸っこいデザインにチャンスがあるというインサイトが生まれた。インサイトに行き着くには「関連づけること」が大事とされているが、今思うと僕がやっていたことは、関連づけることそのものであり、それらを統合することで一気にカーデザインの解決の見通しを立てた訳だ。

ここで工業デザインとファッションデザインの違いを説明する。ファッションデザインは、四〇年代や五〇年代などファッション独特の気分でブームやトレンドが繰り返す。正確に言えば、振り子のよう全く同じ場所を往復するのではなく、らせん階段のように少しづつ高さを変えながら、行ったり戻ったりする。つまり過去にヒントを得ることがファッションデザインの一手法として定着している。しかし、工業デザインは常に未来を向いていて新しいデザインが評価される。さらに過去にデザインのヒントを求めることは敗北だとされる。今でもこういう考えがマジョリティーだ。つまりレトロフューチャーは、正統派のバウハウスデザインの信者からは邪道だとなる。だからこそ、あの時代の日産にパイク(トンがった)というサブカル革命が起こったとされたのだ。

PAOの場合は、当時LAでオープンしたてのバナナリパブリックの店舗デザインからのインスピレーションだ。その当時のバナナリパブリックは店内に壊れた四輪駆動車ジープを含む様々なディスプレイで冒険気分を盛り上げていた。つまりPAOのインサイトは「冒険気分」であり冒険では無い。ハイファッションで言えば、ハンティングワールドの世界観にも近い。このようにファッションの業界ではショーや店舗で世界観を訴求するが、ここには必ずインサイトが巧みに隠されている。ちなみにルイヴィトンのインサイトは、旅と伝統だ。ポスターやCMをよく見ると船や気球や自動車が登場していることがわかる。Be-1もPAOも、ファッションデザインとカーデザインの関連づけでもあったのだ。

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