2015年9月9日水曜日

IoTで製造業そのものを再定義する「インダストリー4.0」。工場はいずれスマホと同じになる。アプリで、どこからでも生産できる汎用性の高いロボット化された「生産装置」が登場するだろう。

ドイツで始まったIoTで製造業そのものを再定義しようとの試み「インダストリー4.0」。提唱者のヘニング・カガーマンは「工場はいずれスマホと同じになる」と言う。アプリをダウンロードすればどんなものでも生産できる汎用性の高い「装置」を思い描く。

「4.0の背景には、データ量の増加と、センサー価格の下落などがある。視覚、触覚となるセンサーを介し、巨大なデータがより容易に得られるようになった。機械工学と電子工学が急接近し、ビッグデータを活用すればドイツ全体のインダストリーにプラスの影響がある」

















シンギュラリティ――。「特異点」と訳されるこの言葉。人類の知性を超える、と人間にしかできなかった仕事、作業がAIを含むコンピューターですべて置き換え可能になる。人がやりたくない仕事からAI化が始まるだろう。

クイズで人間を負かすスーパーコンピューター(IBM Watson)、自動運転車、モノのインターネット化(IoT)が矢継ぎ早に登場したのもシンギュラリティに向けた前哨戦と言える。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM28H8U_Q5A810C1000000/


2015年9月8日火曜日

廃棄された木の幹や枝などの天然素材を組み合わせエッジの効いたエレガントな作品。人が加工することを人工とするならば、木という天然素材を極めて人工的に見せることに成功している。





























韓国のアーティストJae-Hyo Leeは、廃棄された木の幹や枝などの天然素材を組み合わせエッジの効いたエレガントで完璧なカラム、球、円錐、ドーナツ形状に構成されたアート作品や家具を製作した。




















隙間に何か別の素材を充填するように見えるが、どうも隙間が黒く見えるだけのようだ。主に水平に切断された断面を表皮に配置したことが成功の要因だろう。人が加工することを人工とするならば、極めて人工的に天然素材を見せることに成功している。









http://www.lifebuzz.com/wood-craft/
http://www.mymodernmet.com/profiles/blogs/list/tag/jae-hyo+lee


2015年9月7日月曜日

どうして人々は透明のプロダクトに魅了されるんだろう。Dysonも透明のケースが無ければ、初期iMacも半透明の筐体でなければ、あれほどの人気にはならなかっただろう。人に対しても「透明感がある」なんて褒め方をする。


どうして人々は透明のプロダクトに魅了されるんだろう。Dysonも透明のケースが無ければ、あれほどのインパクトは無かっただろう。初期iMacも半透明の筐体でなければ、あれほどの人気にはならなかっただろう。人に対しても「透明感がある」なんて褒め方をする。















透明のアクリルで作られたフィリップ・スタルクの椅子やテーブルやトイレ。倉又史郎のミスブランチ。最近では「CES」で発表され、大いに話題を呼んだ透明ディスプレイ「透明AM有機EL」。無印良品の「貼ったまま読める透明付箋紙」あるいはauケータイ「X-RAY」数え上げるときりが無い。そして透明プロダクトはなぜか未来映画に良く出てくる。















そしてこの透明の車は、1939年ゼネラルモーターズのポンティアックは透明のゴーストカーは、プレキシガラスを開発した会社と協力してレストアされ、完全に機能しており、完全に透けて見ることができるように車は設計されている。


http://www.lifebuzz.com/ghost-car/

2015年9月6日日曜日

秋葉原のカフェオーナーの若い女性経営者が、ハードウェアベンチャーUPQ(アップ・キュー)を開業。しかも24製品というスタートアップにしては大量の新製品発表にメディアは沸いた。


















最近Cerevoをはじめとするハードウェア・ベンチャーが元気だ。従来ベンチャーと言えばソフトウエアだった。その理由は簡単で初期投資が少なくて始められるからだ。しかしハードウェアは型投資に大きな資金が必要となるのでハードルが高かった。















しかし、工業の民主化で3Dプリンターやファブラボ等が登場し比較的容易にプロトタイプなら作れるようになったこともハードウェア・ベンチャーが出やすい環境を生み出した。















そういう変化の中で家電・家具を扱うスタートアップUPQが開いたブランド発表会。第1弾製品として披露されたラインナップは、スマホからデジカメ、4Kディスプレイまで何と17種24製品に及んだ。












CEOの中澤優子さん(一度インタビューでご一緒したことがある)はカシオ計算機で5年間勤務したのち秋葉原でカフェを開いたが、たまたまカフェの近くで開催されたハッカソンでIoT弁当箱「Xben」を企画。

これが経産省フロンティアメイカーズ育成事業に採択され、「SXSW」(South by Southwest)にも出展した。この流れから生まれたのが「ほぼ一人家電メーカー」をうたう、UPQ(アップ・キュー)となる。


Cerevo代表取締役の岩佐琢磨氏も中澤さんのサポーターだ。元々経産省のフロンティアプロジェクトのメンター側を行っていて、IoT弁当箱「Xben」のメンターという形で関わりが始まり、UPQに関してはODMの紹介や品質管理、製品サポートやテクニカルな部分をCerevoがフォローする形で協力している。

http://upq.me/jp/


2015年9月5日土曜日

「Sleep No More」というオフブロードウェイ、観客である我々は白いマスクをつけ「アノニマス(見えざる者)」として参加する。ミューヨークの前衛に触れるのも久しぶりだ。














久しぶりに今月ニューヨークに行くことにした。メーカー・フェアを視察したいこともあるが、友人から薦められていた「Sleep No More」というオフブロードウェイを見に行くことも楽しみだ。かなりユニークな演劇で、観客である我々は白いマスクをつけ「アノニマス(見えざる者)」として参加する。ミューヨークの前衛に触れるのも久しぶりだ。












地上6階、地下1階からなるチェルシーの廃ホテルの館内には、Sleep No More風にシェークスピアの悲劇『マクベス』の世界観をあらわした約100の部屋があり、各所で起こる役者たちの劇中で起こる歌やダンスや芝居といった質の高いパフォーマンスパフォーマンスを見に回る。

しかし、ルールがあって役者に声をかけても触ってもいけない。役者も我々の存在を無視する。という体験型シアターらしい。また、館内にはキャバレー形式のバーも併設されており、開演前と終演後はそこでお酒を楽しむこともできる。五感が活性化することを期待している。




2015年9月2日水曜日

良く気がつくことだけれど、飼い犬とオーナーが良く似ているがありませんか?人は自分に似ているから選んだのか?似ているから愛したのか?このペアの写真は和ませる。


















良く気がつくことだけれど、飼い犬とオーナーが良く似ているがありませんか?シリーズ「犬の人」は、ハンブルクをベースに活躍している写真家のINES opifantiは、こういう「あるある」日常の人々の気づきを発展させた作品。

















まず愛犬を撮影し、その表情やポーズをオーナーが真似るという方法で撮影された。一層飼い主と犬が似てくる。2つ​​の異なる種(人と犬)がこれほど似ているのは、本当に魅力的な関係だ。人は自分に似ているから選んだのか?似ているから愛したのか?










http://www.designboom.com/

2015年9月1日火曜日

最近学生に聞くとロックフェスがブームらしい。国会前の法案反対デモもかつて見た懐かしい景色だった。そこで今日は私達の昔話46年も前のこと。1969年京都で起こった日本では初めてのロックフェス「TOO MUCH」

1969年。京都で起こった日本では初めての実験的ロックフェス「TOO MUCH」
当時、アメリカでは「ウッドストック」が雑誌「LIFE」で特集される程の盛り上がりを見せたが、日本ではロックがお祭り(フェスティバル)となったことは、初めての出来事だった。実験的、何でもありの「TOO MUCH」にロックのミュージシャンが参加し、国産ロックフェスティバル第一号がこの時誕生することになる。
































TOO MUCHの起源

それは、1966年。昭和41年。京美大(京都市立美術大学、現芸術大学)を卒業して1年ほどしか経たぬ頃、同大の教授から声を掛けられ同校の非常勤講師となっていたキーヤンこと木村英輝(現アーティスト)のもとに集まっていた、同大の学生だった

坂井直樹(後に日産の限定車BI-1のプロデュースで脚光を浴び、デザインをプロデュースする新職種として、コンセプターを名乗る)

鶴田憲次(現京都芸大西洋画科教授)
8歳の頃、すでにサルバドール ダリのような特異で緻密な写実的絵画を描き、周りの人を驚かせたという神童である。また、高校時代から蘭の栽培と化石の採取において、プロを超えたコレクターでもあった。

この2人の異才は、世界アートの潮流に気付こうともせず、ぬるま湯にどっぷり浸っている京美大の教官や学生に強い不満をいだいていた。このままでは行き詰まってしまう、授業では味わえない、夢中になれることをメッセージしたいと考えるようになった。2人の提案は講師だったキーヤンにとっては、キャンパスから抜け出した実験的イベントであり、課外授業でもあった。「おもしろい!一緒にやろう」こうして始まった「TOO MUCH」がやがてロックフェスティバルへと変化していった。









時代は東京オリンピック後の昭和40年不況が依然として続いていた。学生たちには満足できる就職先が見つからなかった。それならいっそ自分たちで会社を作ろうと、キーヤンは卒業生たちに呼びかけて、広告企画会社「R.R」を立ち上げることになる。

オフィスは京都の中心街にあった。70年安保もだんだんキナ臭くなり、モヤモヤした気分を持てあましていた学生たちが「R.R」を覗くようになる。美大の教室が「R.R」のオフィスに移った。こうして「R.R」は世界のアート情報を取り入れようとしない教育姿勢に不満を抱いていた学生とその仲間たちのたまり場となっていく。

「R.R」とはRepresentative Result(演出効果)の頭文字からとったネーミングである。ロックンロール(R&R)ではなかった。「R.R」が、やがてロックに関わっていくことになろうとは、開設当時、誰も想像だにしていなかった。

やがて、広告企画会社「R.R」の経営は、広告企画だけでは立ち行かなくなった。なにか他社ではやれない売り物がいる。そこで思いついたのが、サイケデリックな空間演出だった。ニューヨークの「エレクトリック・サーカス」で火が付いたサイケデリック.スペースが新しいプレイスポットとして我が国に上陸。

みんな若いだけあって、さっそくこれを取り入れ、サイケデリックな空間演出をするプレイスポットの企画、制作を手掛けた。
こうして「R.R」はサイケデリック空間の企画制作という新しいビジネスを通じて、知らず知らずのうちに時代に導かれて、誰もが経験したこともないイベントをやるオフィスへと変貌していたのである。

山形不可止、通称GATAは、キーヤンと京美大の同窓生で、「R.R」設立メンバーの一人である。止まるべからず、不可止は本名である。不可止をあえて英訳すれば、ローリング.ストーンとなる。山形はメンバーの中で当時、唯一、中近東、ヨーロッパの旅を経験していた。グローバルな視野で物事を判断できる男で仲間うちでは、誰よりも信頼されていた。

その山形が住む学生寮の隣の部屋に京大電子工学科の北川明がいた。
大人でも難関とされた無線免許を中学生の時、取得した。最年少記録をもつ秀才である。
大学時代は「歩く百科事典」と呼ばれ、その博識ぶりはつとに有名だった。

当時、小田実の「なんでも見てやろう」がベストセラーになっていた。これに刺激を受けて若者たちが海外への旅に憧れた時代である。北川明はこれに便乗して海外旅行の実践本「48ケ国での青春」を著わし、出版した。各国を歩き回り、金がなくなれば血を売って稼ぐといった内容で、信じて旅した若者が気が狂った、とも聞く。

「48ケ国の青春」に触発され、海外へ出かけた若者たちが帰国して、著者、北川明と山形不可止を頼りに「R.R」を尋ねるようになる。彼らにとって、「R.R」の雰囲気は海外でのカルチャーショックをそのまま受け止めてくれる場と映ったようだ。居心地が良かったのだろう、そのまま居候を始めるのだ。

そのうち、居候を尋ねて、海外で交流のあったヒッピーたちがやってくるようになる。「Far out」「Out of site」「Too much」ヒッピーたちが好んで用いる英語が飛び交うオフィスに「R.R」が様変わりするのに、さほど時間はかからなかった。

世紀を揺るがすニュースが衛星放送によって世界へ同時放送されるようになった。ケネディ大統領の暗殺に始まり、以後、キング牧師の暗殺、ベトナム戦争、ビートルズの「愛こそすべて」、月面着陸・・・・と続く。良かれ悪しかれ、国境を超え人種を超えて、若者たちが「何をやりたいのか」「何をやるべきか」を問う時代になった。「R.R」につどう若者の多くもグローバリズムに共鳴していた。

サンフランシスコで自然発生的に生まれたフラワーチルドレンと称されるヒッピーたちがもうひとつの文化と価値観を求めて、東洋の神秘を探るべくインドやカトマンズに旅立った。

アレンギンズバークの「禅の教え」に触れたいと、京都を訪ねたフラワーチルドレンたちは、口こみによって、彼らを迎えてくれる若者たちが集う「R.R」の存在を知ることになる。

当時、ウッドストックが国際的雑誌「LIFE」で特集されたが、ロックがお祭り(フェスティバル)となったことは、日本では初めてだった。実験的、なんでもありのTOO MUCHにロックのミュージシャンたちが参加し、国産ロックフェスティバル第一号が誕生することになる。誰でも自由に参加出来たけれど、カッコよさには、こだわったイベントでもあった。

タイトルの「TOO MUCH」は、キーヤンが命名した。「R.R」を訪ねるヒッピーたちが、よく使う英語だった。最高な時、最悪な時、興奮した時、口調を変えて、飛び出してくる言葉である。発音しやすい英語だ。「ネーミングに関して、私には一家言あった。理想や憧れ、教訓などを押しつける名称は嫌いだった。受け取る響きが勝手に解釈され、一人歩きして広がってゆく名称が好きだった」

「TOO MUCH」は、美大生たちの提案から飛び立ち、ロックフェスティバルに化けて行く。イージーライダー、ウッドストック、若者文化はサブカルチャーと称され、政治、経済、宗教を超え、世界に新しい価値を求めた若者たちは70年代に向かうのである。
http://toomuch-music.com/1.html