このルイ・ヴィトンのブランディングを見ていて、いきなり「守破離」という言葉を思い出した。ルイ・ヴィトンというブランドの型を「守」り、創造性や工夫を発揮して「破」り、自由自在にルイ・ヴィトンを演じ「離」れる。それでいてブランドの本格を一歩もはずさない。伝統とアヴァンギャルドが常に同居することでブランドは古びない。世阿弥の『花鏡』では、種が守、花が破、実が離にあたる。
江戸千家の川上不白の「守破離」、不白は『不白筆記』『茶道訓』なども遺していて、その『不白筆記』に「守破離」を説いて、こうある。「守ハマモル、破ハヤブル、離ハはなると申し候。弟子ニ教ルは守と申す所なり。弟子守ヲ習盡し能成候ヘバ自然と自身よりヤブル。これ上手の段なり。さて、守るにても片輪、破るにても片輪、この二つを離れて名人なり。前の二つを合して離れて、しかも二つを守ることなり」。
入門してしばらくの「守」は、教えられた型を徹底して学ばなければならない。まず守る。芸ではこれを身に付けるという。ここでは教えが必要である。「破」はその身に付いた型をつかって、身をはたらかせる。創造性や工夫を発揮するのはこの「破」の段階である。作用をおぼえる。これらに対して「離」は自由自在に身を演じるところ、それでいて芸の本格を一歩もはずさないことをいう。そこを茶と禅と剣を合せていた不白は「入神の芸境」と言った。とくに「家」を離れて「間」に遊ぶのが「離」なのである。
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