「デザインの神様」といわれたレイモンド・ローウィが、すでに現代の優れたデザイナーたちの行っているコンサルティングや、マーケティングを行っていたことが興味深い。経営者の持つ問題解決を常にデザイナーの立場で実践してきたレイモンド・ローウィは現在のデザイナーの原点だろう。善し悪しは別にしてデザインが流行として消費され、陳腐化させられる時代の到来でもあった。1938年フランス人だった彼が、アメリカ市民権を取得し140社もの企業のデザイン・コンサルタントをつとめた。
「口紅から機関車まで」のキャッチフレーズで1930年代から70年代のデザイン界を牽引したレイモンド・ローウィといえば、御存知のように日本で言えば煙草ピースのデザインをした人で。白抜き文字のシンプルなデザインは「わかりやすく、新鮮、そして印刷経費を節約できる」と語り当時JTの経営者を説得した。かつてレイモンド・ローイがデザインすると、その商品は必ず売れると言われた時期だった。
レイモンド・ローウィがピースのパッケージをデザインしたのは1952年だ。僕が5才だったから、この話は高校生になった頃に聞いたことになる。当時としては、とてつもなく高額のデザイン料、400万円と噂で聞いた。当時大卒初任給が1万円位だった。どれくらい高額なデザイン料だったか想像できるだろう。不謹慎ながら僕が、その後デザインに興味を持ち京都芸大に進んだ切っ掛けの一つになった。
ローウィは「良いデザイン」「悪いデザイン」という捉え方をせず、「売れるデザイン」こそが「良いデザイン」だときわめて米国的に考えた。そこでローウィが取った興味深い方法は、「不美人コンテスト法」と呼ばれるものであった。これはたくさんのデザインを消費者に見せて、嫌いなものを投票する。売れるデザインを見つけるためには、多くの人が「嫌い」と感じるものを避ける。そして商品に対する理解が明確なデザインこそが「売れるデザイン」だと決めた。
これは現在でも「コンセプトアピール・テスト」と名付けられて、より進化してマーケティング手法の一つになった。そしてデザインもマーケティングも、米国産業界にとって今も必要な経営資産として定着したことは興味深い。(WEB上のレイモンド・ローウィに関する複数の著述を参考にして再編集した)
「口紅から機関車まで」のキャッチフレーズで1930年代から70年代のデザイン界を牽引したレイモンド・ローウィといえば、御存知のように日本で言えば煙草ピースのデザインをした人で。白抜き文字のシンプルなデザインは「わかりやすく、新鮮、そして印刷経費を節約できる」と語り当時JTの経営者を説得した。かつてレイモンド・ローイがデザインすると、その商品は必ず売れると言われた時期だった。
レイモンド・ローウィがピースのパッケージをデザインしたのは1952年だ。僕が5才だったから、この話は高校生になった頃に聞いたことになる。当時としては、とてつもなく高額のデザイン料、400万円と噂で聞いた。当時大卒初任給が1万円位だった。どれくらい高額なデザイン料だったか想像できるだろう。不謹慎ながら僕が、その後デザインに興味を持ち京都芸大に進んだ切っ掛けの一つになった。
ローウィは「良いデザイン」「悪いデザイン」という捉え方をせず、「売れるデザイン」こそが「良いデザイン」だときわめて米国的に考えた。そこでローウィが取った興味深い方法は、「不美人コンテスト法」と呼ばれるものであった。これはたくさんのデザインを消費者に見せて、嫌いなものを投票する。売れるデザインを見つけるためには、多くの人が「嫌い」と感じるものを避ける。そして商品に対する理解が明確なデザインこそが「売れるデザイン」だと決めた。
これは現在でも「コンセプトアピール・テスト」と名付けられて、より進化してマーケティング手法の一つになった。そしてデザインもマーケティングも、米国産業界にとって今も必要な経営資産として定着したことは興味深い。(WEB上のレイモンド・ローウィに関する複数の著述を参考にして再編集した)
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